祭神および創立

八百富神社の祭神は市杵島姫命であり、天照大神が剣を折って霧を出した時に、現われたと言われている美しい神です。昔はその御前には弁才天を祀っていました。相州江ノ島や、江州竹生嶋、芸州厳島と共に、日本七弁天の中の1つとして数えられ、開運・興福を司り、安産の守護神としても祀られています。
1181年3月18日に、藤原俊成が地方開発、産業発展のために福神である市杵島姫命を、江州竹生嶋から勧請しました。霊験が顕著で参詣者は常に絶えなかったと言われています。

藤原俊成
俊成苑

四柱の御祭神

宇賀神社 / 宇迦之御魂神
宇賀神社 / 宇迦之御魂神
宇迦之御魂神は穀物の神様であり、『宇賀神王略縁起』には寿永三年から建久四年(1184~1193)当地方の三河守であった源範頼公が深く信仰した神霊と記されています。海嘯により流されてしまい一時期は郡内国府村(現在の豊川市国府町)で祀られていましたが、享保十年(1725)に国府村の住人と竹島の神主が同時に「竹島に帰りたい」という霊夢を見たことにより竹島にお還り頂くことになりました。この出来事が元となって現在でも国府村の人々の崇敬は続いています。
大黒神社 / 大国主神
大黒神社 / 大国主神
大国主神は国土を平定し、土地を開拓し、庶民に農耕の道を教え、医薬や禁厭(まじない)の法を授けるなど、国土経営にお尽くしされた多くの功績と多様な御神徳をお持ちの神様です。また七福神の一柱である大黒天と習合し、福の神としても一般衆庶に広く仰がれております。当社においては『竹島参詣滑稽鄙栗毛』に神社名を見ることはできるものの、創建が何時の世であったのかは詳らかではありません。
千歳神社 / 藤原俊成卿
千歳神社 / 藤原俊成卿
藤原俊成(しゅんぜい)は権中納言藤原俊忠の子として永久二年(1114)に御誕生されました。和歌に秀でられ『千載和歌集』を撰じ、歌聖と呼ばれた藤原定家(ていか)の御父上にあたります。元久元年(1204)九十一歳で薨ぜられ、当時としては大変な長命でした。久安元年から同五年(1145~1149)当地方の三河守として竹谷蒲形の両庄の開発の任にあたられた際、風光明媚にして竹生島を髣髴とさせるこの竹島に、江州竹生島より弁財天を勧請されたことが八百富神社の起こりになります。

八大龍神社 / 豊玉彦命

八大龍神社 / 豊玉彦命
豊玉彦命は海の神様であり、綿津見国を主宰する豊玉姫命の御父神になります。『龍神略縁起』の記すところによれば、藤原俊成卿の夢で「この海底で年月が経過すること数百年に及んでいる。この島に社を建て私を祀るならば、永く守護をあたえよう」との託宣があり、その通りに海底に綱を入れさせたところ、龍神の御尊体が現れたという言い伝えがあります。雨乞いを始めとした霊験の著しい神様として多くの崇敬を集めています。

歴史

安徳天皇の養和元年(1181年)に、藤原俊成卿によって創建されたと伝えられています。
御祭神は市杵島姫命で、開運・安産・縁結の神として、古くより広く世に知られております。
三河雀という書物には、江の島・竹生島・厳島と共に、日本七弁天の中に挙げられています。

八百富神社
八百富神社

武将の崇敬

1600年関ヶ原の戦いの前には徳川家康が参拝し、その後朱印四石八斗を寄進しました。領主松平家の崇敬は篤く、鳥居・華表・燈籠などの奉納も非常に多くおこなわれています。
また、毎年正月と江戸表へ出立・帰郷した際には、金紋先箱にて列次を整え、領主自ら参拝したり、例祭には重臣に代理させて弓の神事も行われました。毎月18日には近臣に代理出席させ、干ばつの際には雨乞の祭典も実施されました。
1625年の大干ばつの時に行われた領主の祈願によって、降雨があったと伝えられており、人々が感謝し法華経全巻を奉納したこともありました。

皇室の崇敬

1735年には神祇伯雅冨王によって「八百富神」の御神号をお受けすると共に、滋野井中納言の手を経て禁中の御翠簾と菊御紋章付きの提灯を奉納されました。

皇室の崇敬
皇室の崇敬

近代の崇敬

明治以降も名士の参拝・奉納が行われており、変わらず崇敬を集めていた様子が伺えます。

明治:前社寺局櫻井能監、内務大臣一木喜徳郎
大正:愛知県知事松井茂、陸軍中将高橋於莵丸
昭和:元帥東郷平八郎、総理大臣若槻礼次郎

近代の崇敬